【作品】ガスマスク着用令

来るべき未来に向けて
政府が打ち出した施策は 単純なものだった
東日本地域に居住する
全ての国民は 外出する時は必ず
ガスマスクを着用するという政令
突然発表された


3月31日 午後9時
それは不自然な自然を装った成り行きだった
総理大臣が会見を開くと瞬く間に
全ての家庭には 家族の人数分の
ガスマスクが支給された
その夜を境にして 東京は変わった
職場へ出かける時も 買い物に行く時も
教会の礼拝に赴く時も
病院に薬を貰いに行く時も
健康食品の講習を受ける時も
健やかなる時も 病める時も
ありとあらゆる全ての外出する機会には
全員が同じガスマスクを装着する


反発は 当然広がっていった
何の前触れもなく突然始まった
ガスマスクの導入は 一説によれば
アメリカからの指示とも 
ガスマスクを大量輸入する某国と
その受注に関するルートとの密約とも噂された
とにかく その日を境にして 
本当に 本当の意味で東京は変わった
首都機能の大半は 関西へ移り
きらびやかな高層ビルからは 光が消えた
子供達の多くは疎開
友人の多くも西日本へ移住した
共に生きようと液晶画面の向こうで
視聴者の眼を真摯な表情で見つめていた
著名人達も 東京から去っていった
残ったのが
一体どういう人達であったのか
家族も身寄りもいなかった
自分を物差しにしてみれば
何となく察しはついていたけれど
実際の所 よく分からなかった
そもそもお互いの表情など
ガスマスク越しでは読み取る術などない
ごく身近な 恋人や友達
それ以外の人達の顔など
考えてみれば 今までだってまじまじと
眺めたことがあっただろうか
そう考えれば
この東京だって捨てたもんじゃない
そう考えれば この生活も捨てたもんじゃない
他人の顔色を伺うことなく
誰に気兼ねすることなく 遠慮することなく
思うままに生きることができる
そうだ 
これこそがきっと
そうだ 
これこそがきっと


希望的な観測と
自己啓発セミナーみたいな
プログラムしか流さなくなった
テレビの向こうで 
笑顔の黒光りした司会者が語る
皆さん
どんな環境に置かれたとしても
それが一度始まってしまえば
適応することができるのです
だから私たちは 共に戦いましょう


諦めにも似た不自然な感覚だけが
平等に降り積もっていく
それが愛に変わったり
友情に変わったりしながら
色のないまま 埋め尽されていく街で
俺達は努めて平静を装っていた
何も気にしなければ 何も変わっていない
聴こえることも 臭うこともない
ただひとつ 俺達が表情を無くしたまま
ガスマスクで町を闊歩している違和感だって
時間が経てば少しづつ取り除かれていく 
何を考えているかを
詮索し合わない 閉ざされた東京で
ガスマスクを被った俺たちは 
お互いの顔を知らないまま 
ずっとひとりだった 
そうだ
これこそがきっと
そうだ
これこそがきっと


自由だ


政令から 丁度1年後 3月31日 11時30分
営業の途中で新宿に立ち寄ると 
街の様子が凍えていることに すぐに気付いた
ガスマスクの人々は立ち止まって
みな同じように久々に点灯された
アルタのディスプレイを見上げていた
画面の向こうで黒光りした司会者が
いつもと違う真剣な表情で語り始める


皆さん
今日を以って あなた方の生活は終わる
あなた達は 本日の正午を以って処理される
全ては 我々の平和の為に行われることだ
我々は あなた方の犠牲を
決して無駄にはしない
あなな方は 選ばれた 尊厳ある人々だ
敬意を表する


我に帰り 腕時計を見る もう時間がない
恋人にも 友人にも
もう会うことはできない
最後の瞬間を この身も知らぬガスマスク達と
共に過ごそうとしている
その時はやってきた ようやくやって来た
全ての夢から覚める瞬間が


見渡せば
諦めに似た不自然な感覚だけが
平等に降り積もっていた
それが愛に変わったり
友情に変わったりしながら
色も匂いも音もないまま
埋め尽くされていく街で
ガスマスクを被った俺達は 
お互いの顔を知らない俺達は
立ち尽くしたまま
ひとりずつだった
俺達は最後までひとりずつだった


そうだ
これこそがきっと
そうだ
これこそがきっと
そうだ
俺たちは


自由だ



さあ
どうする?