えー

このまま延々と書いていくと
とてつもなく長くなることに今気付いた(汗)


ということで、今回は一個だけ。


気になったのは
音楽を評論すること、また音楽ライターのあり方に関する
言及です。


自分の経験で言うと、
確かに楽器をいじったことがなかったし
今と比べても音楽経験が少なかったこともあって
指摘を受けるような印象論で書くことは
少なくありませんでした。
ただ、書いていたのが邦楽誌で、対象がティーンネイジャーの
女の子が主体ということもあったのですが
良し悪しというよりは、
その音楽がリスナーとどのような
関係性を持っているのか、という所に着目して書いてました。


無論、音楽の好き嫌いは当然ありますし
ある程度含みを持たせた表現を使って
滲ませることは結構してました。
それで、文章力が鍛えられたのも事実ですし。
ただ、いずれにしてもその音楽が好きな子達が
読んでいる、ということと
自分の書くものによって、初めてその音楽に触れるという
人もいるかもしれない、ということは
前提において書いていたつもりです。


自分もその中のひとりという自覚の下
音楽は好きであっても、音楽理論とか楽器とか
方法論とか、そういうものは後付で
最初に心奪われるのは、そういうものを
すっ飛ばした衝動だと、それは今でも思ってます。
だから、生業にならなかったのですし、
理論や知識の裏づけはあるに越したことはないとも
思っていますが


それが音楽そのものに向くのか?
あるいは音楽を生み出す人となりに向くのか?は
基本的には個々で異なるものだと思ってます。
i-pod等の携帯音楽に至る過程として言うならば
音楽で情報の価値観がガラっと崩れた時代は
90年代前半に一度訪れている。
CDにフォーマットが切り替わって
種々多用な音楽が一変にCD化され
時代背景とかすっ飛ばして、一緒くたに
WAVEやHMVにディスプレイされた時代
下手したら今よりも混沌とした状況だった
で、そこで生まれたのがそれこそ
フリッパーズ・ギターであったり、
小沢健二であったという図式
本人達はどうあれ、少なくともリスナーは
そこに意味を見出さざるを得なかった、という構図がある


本人が否定しても、
あるいはそこに音楽の内実がなかった、としても
人がそこに幻を見ている、
という市場は間違いなくそこにはある。
その関係性を説くのも、
批評の大きな役割だと自分は思います。